キタザワDNAトーク
この対談は、2006年10月に、当時の北沢通正会長(右)と清水武社長(左)とで行われ、旧ホームページに掲載していたものです。
北沢会長は相談役となり2016年12月に亡くなり、清水社長は会長となった後2011年12月に亡くなりました。
キタザワのDNAとも言える内容が含まれていますので、あえて「キタザワDNAトーク」として、残すことにいたしました。
会長・社長、キタザワを語る/
北沢建設(株) 北沢通正会長・清水武社長(2006年10月当時)
司会:北沢会長(写真右)と清水社長(写真左)は二人三脚で、北沢建設(以下キタザワ)を36年以上も育ててこられたそうですが、お二人の出会いは、いつどんな形だったのですか?
北沢:年齢は、私がひとつだけ上なんですが、NTTが電電公社だったころ、実は、鈴鹿の訓練所で同期だったんですよ。二人で夜はよく飲んでいたんですが、清水さんは優秀で、管理職試験にも合格し、そのままいけば、将来はかなり出世できるはずだったんです。
でも、途中で建築がやりたいといって、夜学に通いだし、ついにやめちゃったんですよ。入社して8年くらいたったころかな。
清水:なんかレールが決められちゃったみたいで、嫌だったんだよね。
北沢:清水さんは、考えるより行動が先にたつ人だから。
清水:北沢さんは、まず考える方だよね。音楽や文学も好きだし。
北沢:うちの親父が工務店をやってたのは偶然で、別に継ごうとなんて思ってなかった。ただ、電電公社では、建築設備部門にいたから、その頃、二級建築士は取ってたんだけど、親父が体調を崩し、これは継ぐしかないな、と思い、一人じゃできないから、それで、すでに建築の仕事をしていた親友の清水さんを引っ張ったという訳です。
清水さんが勤めていた会社にまで「やめさせてください」なんてノコノコ言いに行ったりして、「はい、いいですよ」なんて言う訳ないのに、いまから思うとよくやったよな、なんて思います。こうして会社として始めた訳ですが、親父は、これで安心したというわけではないんだけど、それから1年もしないうち亡くなりました。
司会:会社を始めたころはいかがでしたか?
北沢:もう、最初から、清水さんが技術でものづくり、私が営業とお金の管理というスタイル。いつも二人一緒で動いてた。二人で営業にまわって、私がいろいろとお客さんと話をしている間に、清水さんが下を向いて何やらこちょこちょ書いている。話が終わったあと、清水さんが、それをお客様にみせて「すごい、もうできちゃった」なんてことで仕事をもらったこともあった。今からは信じられない話だけどね。
清水:そう言えば、そんなことも結構やってたね。
北沢:でも、試行錯誤の連続だった。いまでも、そうだけど、わかったことは、いきつくところ、セールスに術はない、ということ。どれだけ、お客様と気持ちの交流ができ、響きあい、想いを共有して一緒に家づくりができるか、ということ。そうすれば、おのずと仕事は来るしうまくいく。
清水:うん。それで、なんとかやってこれたね。そういえば、雑誌や新聞に広告を出したこともないし、ほとんどが口コミや紹介だよね。
北沢:そう。とにかく、誠実。うそをつかない。ごまかさない。これに限る。そして、協力会社には、飲食をおごることはあっても、おごってもらわないことは徹底してきた。腐敗や癒着は、そうしたところから簡単に始まるし。耐震強度偽装問題なんて、ほんとあるまじき許しがたい話だった。
清水:無駄遣いもしてこなかったよね。キャバレーとかも、行ったことないしね。
北沢:1回だけ、話のネタに、安キャバレーに行ったことあったでしょ(笑)
司会:これまでの仕事で思い出に残ることなど教えてください。
北沢:たくさんあるけど、何よりも嬉しかったのは、すでにキタザワで家を建てたお客様から、その後も長くお付き合いしようと友の会をご提案いただいたことかな。1979年(昭和54年)のことです。
私たちも「社員が、素晴らしいお客さまに恵まれているという自覚によって、仕事に責任感を持つ」という位置づけで、大切にしてきた。毎年1回イベントを開催し、懇親を深めてきたけど、1000名を越えるようになってからは、開催できなくなっちゃった。
でも、20年たっても30年たっても、いまだに毎年、すべてのお客様のお宅を訪問している点、末永くお付き合いしていくという精神は続いているよね。
清水:そう、カレンダーをもって挨拶も兼ねてね。北沢さんの趣味で、毎年必ず鉄道のカレンダーなんだよ。
北沢:まぁ、いいじゃないですか。清水さんが決めるんだったら、熱帯魚のカンレダーになっちゃうのかな?(笑)
清水:思い出と言えば、縁あって、有名人の方の家も、結構建てさせていただきました。女優の白川和子さん、作曲家で文化功労賞をもらった柴田南雄さん、それから、作家の開高健さんの仕事場の話が来たときには驚いたね。1980年(昭和55年)に茅ヶ崎に建てさせていただいた。惜しくも若くして亡くなられましたが、いまは、開高健記念館になっています。
北沢:ちょうど先生は、数年前にヴェトナムから取材で帰って来られた頃で、住居のことなんかあんまり関心がないのかと思ってたら、上棟式のときとても喜んで、お酒を飲んで最後までつきあわれて、あれから私のところとおつきあいが始まったんです。
この戸棚の板はこれがいいと選ばれたりして、全部先生の希望で造りました。作家の先生は、あまり知らないのですが、先生は、自分の好きな宝物を部屋いっぱいに飾って、おもちゃ箱みたいにして、無邪気な人という感じがしました。
司会:最後に、社風についてお聞きしたいのですが、お客様からは、どんなふうに言われることが多いですか?
清水:真面目だとかアットホームだとかはよく言われるよね。
北沢:家をつくる会社だから、社員もアット「ホーム」じゃないとね。
清水:昔からヘンな会社だと言われることもあって、いまでも言われることありますね。だいぶ前から、年賀状や暑中見舞いは、いつも、社員全員の似顔絵をあしらった絵柄にしているので、そのせいが大きい気もするけど。
北沢:創立20周年と25周年のときに、記念誌を社員たちに任せて作らせたら、そのときの表紙も同じ路線。20周年のときは、社員が合唱をして私が指揮しているイラスト。25周年のときは、合成写真で社員の人間8段ピラミッド。私たちは、スフィンクスにされちゃった。おまけに、記念誌の「はじめに」には、「この記念誌を読んでいただく方へのお願いと心構え」というのが書かれていて、「私たちの私たちによる私たちの記念誌だ」と書かれている。お客様のために作ったものじゃないんだよね。会社のありのままが、全部開けっ広げに書かれている。まるで、小中学校の文集。それなのに、恥ずかしげもなく、お客さん全部に配っちゃった。
清水:そんな文集を作る方も作る方なら、配る方も配る方だよね(笑)
北沢:でも、社員が遊び心をもちながらも、楽しくかつ真摯に仕事をしている様が伝わってよかったと思っている。たしかに、おかげでヘンな会社というイメージは定着しちゃったけど、どちらかというと、いい意味でヘンという形で伝わったみたいだから、よかったんじゃないかな。
司会:その記念誌は、私も楽しく読ませていただきましたけれど、残部はまだありますか?
北沢:まだ、少しはあるんじゃないかな。
司会:じゃあ、この対談を読んでくださった方には、御礼として、希望者にはあげちゃいましょうか?
北沢:う~ん。いまさら、ちょっと恥ずかしいな。
清水:いま36周年だから、40周年のときに、ちゃんとしたのを作りましょうよ。
北沢:でも、また同じような記念誌になっちゃうと思うけどな(笑)
司会:では、4年も待てないので、残部を希望者に差し上げることにしちゃいます。本日は、ありがとうございました。
取材・構成:徳留佳之
※記念誌を、本当にご希望の方は、こちらから。